ゴッド(God)を神と訳したのは日本のキリスト教の大きな失敗

ゴッド(God)を神と訳したのは日本のキリスト教の大きな失敗

 キリスト教を勉強するとすぐに気づくのは、キリスト教のGodは日本の神とはかなり異なるということです。一神教と多神教との違い、ということでしょうが、日本にはGodのような絶対主という概念は存在しません。

 戦国時代のキリスト教伝来時、やってきたポルトガルの宣教師達は、最初はGodの訳語に「大日」を使用します。最初に信者になった日本人と話してのことだったようですが、これが問題で、大日如来ということで、日本の僧侶から仏教の仲間が来たと歓迎されてしまったり、いろいろとまずい事に気がつきました。日本の仏教用語を使うと混同される、ということで、結局、Godはデウス、地獄はインヘルノなどと、そのままの単語をカタカナで使用しました。

 江戸時代はキリスト教は禁教となり、再び日本へやってきたのは明治時代の初めでした。まずは聖書を訳そうという話になるのですが、実は日本語版聖書を作る前に、中国語版聖書が存在しました。西洋諸国の植民地獲得はキリスト教の宣教と同時に行われるわけですが、中国への進出は日本へ来るよりも早かったため、中国語訳聖書の作成の方が先になったわけです。
 中国語訳では、Godの訳語に何を使うのかが大きな議論となりました。イギリス人の宣教師たちは「上帝」を、アメリカ人宣教師たちは「神」を使うことを主張しました。中国は一神教はさかんではありませんので、上帝も神もGodにあてるには正確な言葉ではなく一長一短があり、結局両者は折り合わず、それぞれ別の訳書を作ることになりました。

 明治維新を経て、日本でもキリスト教の宣教が許されるようになると、まず来たのはアメリカ人宣教師であり、もってきたのはGodに「神」を使用した中国語訳聖書でした。当時の日本人の知識人はほぼ漢文を読むことが出来ましたから、日本語訳を作るより先に、中国語訳で理解しました。そのようなこともあり、日本ではGodに「神」をあてることが、さほどの問題もなく通ってしまいました。実は中国語の「神」と日本語の「カミ」とは概念が少し異なります。ただ、絶対主Godほどの差はありません。

 ということで、明治初めの日本語のキリスト教書を見ると、ほとんどが「神」または「真神」、「真(まこと)の神」という言葉を使用しています。絶対主という概念をまったく持たない日本人には、本物の神、という説明をする方が話が早かった、というのも、もしかするとあったかもしれません。
 しかし、「神」という言葉を使用した瞬間に、絶対主Godは相対の位置に引きずり降ろされることになりました。この世の中、世界を超越する絶対主であるもかかわらず、八百万の神の一柱になってしまったわけです。その昔から、日本でも絶対ではないけども、一番偉いような神仏というのは存在しました。神道で言えば初源の神である天之御中主大神、国常立尊、あるいは天照大御神ですし、仏教では全世界が仏である、という思想の大日如来や、これだけに頼めと信仰された阿弥陀如来などですが、これらはすべてGodのような唯一絶対、万物を超越する主ではありません。ですから、神と訳してしまうと、真の、とかを付けても同じで、八百万の中で一番偉い神、としか認識されなくなってしまいます。

 「福音をわたしたちに与えて下さった神について、まず、正しい概念を持たせることが必要である。なぜならば、日本人の神観念は一般的にきわめて粗雑だからである。かつては自分と同じ人間であったものを神として祀りあげるのはまだしものこと、理性もない鳥獣を神様にして、家内安全、商売繁昌を頼むというのだから、全く言語道断といわざるを得ない。そのほか、日・月・草・木・石などにいたるまで、神秘的な力や神性をそのうちに認めて、祈願の対象とする。このような低い神概念を、意識的にせよ、無意識的にせよ、生まれながらに持っている人々に対して、聖書に明示された創造主、唯一の生きた人格神、しかも、絶対的な義であり聖であり愛である神を知らせることは、他のいかなることよりも重要である。」高橋陽子『個人伝道』聖書図書刊行会
 
 この文章を読むと神道の信徒だけでなく、多くの日本人が一言言いたくなるかもしれませんが、それはさておき、Godに「神」という言葉を使うから、このような状況になるのであって、違う言葉を使用すればそもそも混同しません。日本人の「低い神概念」に悩まされることもありません。

 明治維新以後、また第二次大戦後にも日本において、キリスト教の布教が熱心に行われました。投下された人的資源、お金、そして布教者の熱意は相当のものだったと思いますが、信者はあまり増えませんでした。理由は多々あると思いますが、私はこのGodに「神」をあてたことも一因であると考えます。絶対主Godが八百万の神の一柱になってしまえば、キリスト教は理解できません。そういう面では戦国時代の宣教師達の方が正解であると言えます。

 また、神道側でも今後は世界にもっと神道を説明していなかければなりません。神社本庁などで英語で説明をしていますが、神の訳語には「God」ではなく「Kami」をあてています。もちろんKamiとは何か、という説明も加えなければなりませんが、正しい信仰を伝えるためには、そのような努力を惜しんではいけない、と考えます。

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<このページの筆者>
 中島隆広 : 出雲大社紫野教会、教会長
昭和46年京都府生まれ。名古屋大学経済学部卒業、会社員の後、パソコン部品のインターネット通販の会社を起業して経営する。会社売却の後、國學院大學神道學専攻科に入学し、神主となる。

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